No Bugs, No Life

読んだ本や、プログラミング、システム開発等のねたを中心に。文章を書く練習なので少し硬派に書くつもりだけど、どうなることやら。

BOOK:プリンシプルのない日本

プリンシプルのない日本 (新潮文庫)

プリンシプルのない日本 (新潮文庫)


惚れ惚れするような格好良さ。写真の見た目も渋いが、もちろんルックスのことではなく彼の言葉が。

別に、昔の人は偉かったとか、最近の政治家はダメだとか、民度の低下が嘆かわしいとか、そんな馬鹿げたことを言いたいわけではない。
この本を読んで見ると、(白州次郎の視点からはかもしれないが)戦後の政治家たちも今と同じように政争に明け暮れていたようだし、官僚はお役所仕事でお上風を吹かしつつも事なかれ主義が蔓延していたようだし、マスコミも同じように視聴者(主に読者?)の食いつきの良さそうな断面を切り取ってうまいこと選択して煽っていたようだし、経営者達はギョーカイ団体を組んで補助金を寄こせだの天下国家のためにはxxxを振興しろと提言していたようだし、今と何ら変わらないんじゃないか?

でも、こういう直言を出来る熱を持った知識人*1が居たことは確からしい、と自分は信じてしまっている。


翻って今のワレワレの身に当てはめてみようか。
このような熱を持った知識人を、自分は見つけられていない。
本当に居ないのか、ただ単に自分の周りには居ないだけなのか、それとも自分には見えていないだけなのか。

もちろん、全てが平均化して磨耗した現代の日本では、大粒も小粒もクソもミソも区別が付かなくなってしまって、偉大な人物を産み出す土壌が貧しくなってしまったと嘆くむきもあるだろうし、今の教育が従順な労働者を大量に製造するためのシステムであってそれが平均化したつまらない社会の遠因だという主張もあることは認識している。
それが真ならば今の日本には本当に居ないのかも知れない。

一方、敗戦直後の政治家や官僚やマスコミや経営者達(この本では市井の人々についての記述はあまり無い。彼が怒る対象は常にそういった社会的に活発な活動をしていた人々に向けられていたからだろうけど)の姿が現代日本の彼らに重なるということもまた真で、それならば現代の白州次郎が今この日本に居たとしてもおかしくないのでは?と考えたとしても道理は通るだろうか。


...なんて書いてみたけど、この本のタイトルをもう一度見直すと、上のような考え方は彼が望むところではないんだろうな、と思う。

「プリンシプルのない」は時の政府だけに向けられたものでも、外務官僚だけに向けられたものでもなく、「日本」そのものに向けられているのではないだろうか。
つまり、彼の怒りの矛先には上がらなかったかもしれないけど、われわれのような市井の庶民にも「プリンシプルのない」は向けられているんだと考えるべきだし、(現代では当たり前すぎる常識(タテマエ)かもしれないけど)代議士は国民の代表だという議会制民主主義の至極根本的な彼の指摘とも整合するだろう。
プリンシプルを持たずにフラフラと自立できないからこそ、上記のように「現代の白州次郎」を他に求めるような思考が存在しうる*2わけで、それこそは彼が嘆いたプリンシプルのない日本(の市井の庶民の一つの典型)になってしまっているんじゃないかな。

自分自身も而立を過ぎた(不惑のほうがよっぽど近いが...)ことだし、他人にお任せなんて言ってられない年齢。
白州次郎にはなれなくても、テメエのケツぐらい拭きつつ熱を持って直言することぐらい(?)は出来なくてはダメだね。って今日もまた自省。


本日は一寸お疲れ気味のせいか無闇な長文になってしまったけど、最後に感想を。
久々に刺さった。
読んでると、なんだかケツをたたかれてる様な、励まされてるような、そんな気にもなるんだけど、彼自身は戦中世代としての責任を背負いつつも、次世代に渡す荷を少しでも軽くしたいと真剣に考えていたんだと思う。
言葉使いは粗にして野なれど卑にあらずってところだけど、心根のやさしさ(って言葉では適切ではないかもしれないが)とスジの通しっぷり(侠気とも違う)にしびれてしまったよ。

*1:あくまでも知識階級とかは言わない。知識階級・知識層なんていうほど多くの人がいたのかは判らないし、なんか学識者的な人々を含めたくない。

*2:今は、無気力や閉塞感のほうが更に幅を利かせているのかも知れないけど